おにたろう日記

医学生の徒然なる日記blog

【独り言】小学校教育で必要なことは何なのか?

自然に囲まれた普通の小学生

 今となっては遠い過去になってきた小学校時代は、今の自分を作り上げるに大いに貢献した時代。こんな僕のことを覚えていてくれている先生はもうあまりいないのかなあ。特にスポーツや勉強で目立つわけでも、天才的な作品を図工の時間に作っていたわけでもないから、印象に残るような生徒ではなかったと思う。なんて書きつつ、やっぱり一人くらいはいて欲しいと切実に思うあたり、しっかり承認欲求のある人間なんだなあ。

 小学生といえば、なりふり構わず、自分のしたいことに熱心に打ち込める時代だった。好奇心は昔から周りよりも強く、どんなこともしてみたいな、どうなっているんだろうな、と考えていた気がする。草むらへ入っていっては、バッタやセミなどを捕まえたり、たまに遭遇する蛇の動きに感動したり、空を飛ぶ鳥たちのなんて気持ちよさそうなこと、川で泳ぐ魚の優雅なこと、基本的にはこうした自然に好奇心ともども育てられた。

 親も比較的自然が好きだったのかな。今となっては行く機会も減ってしまったキャンプ、海水浴、川遊び、釣り、竹の子狩り、芝生でゴロゴロ、スキー、僕にとってはとってもとーってもかけがえのない大切な時間だった。今でも時間があったらいきたいなあと思ってしまう。

勉強は嫌いではなかった

 勉強の方はというと、そこまで親にやりなさいと言われた記憶がない。もしかしたら、たくさん言われていたのかもしれないけど、自分にとっては少なかったと思う。だから勉強は嫌いではなかった。

 決して得意でもなかったけれど。

 それでも、ページをめくるごとに次々と新しいことを教えてくれる紙には感動した。写真や言葉で、新しい世界を見せてくれる教科書が好きだった。ワクワクを与えてくれる本という印象だった。

テストは嫌いだった

 それにも関わらず、点数は毎回100点ということにはならなかった。ここが近代教育の嫌なところだ。自分の好きなことだけやっていては、「君は周りから遅れている。」と言わんばかりの点数が紙に書かれて帰ってくる。この紙のことは正直嫌いだった。勝手に評価してくる。僕の好きなところばかり聞いてくれたらいいのにと何回も考えた。

 テストが嫌いだったから、好きになろうとした。どうしたら好きになれるのだろうと考えた結果、いい点数をとると周りから認めてもらえるところに着目した。いや、してしまった。

褒められすぎた

 親にはめちゃくちゃ感謝している。一生かけても返せない恩がある。本当に大好きだ。だけど、一つだけ文句を言いたいこともある。それは褒めすぎたことだ。気づくと、褒められないといけない人間になっていた。

 僕は周りの目をすごく意識した。どうしようもないくらいに意識した。最近はようやく意識しないでいいようになってきた。それにはトレーニングが必要だった。小学生の時も常にそうだったから、周りからいい子だねと言ってもらうためなら頑張れた。親が喜ぶ姿を見ていると自分の存在価値を認めることができた。生きがいだった。気持ちよかった。だから、テストも頑張れた。いいことだらけじゃないかと思われるのかもしれないけど、高校生になったときにかなり苦しんだ。

「平等」そして「標準化」

 丸くなった。僕は周りの目を意識するようになって、周りの大人、特に親や先生が何を求めているのかを探りながら、生きるようになった。結果的に大人の望む子供になっていったんじゃないかなと思う。国語、算数、理科、社会、図工、体育、音楽、道徳、書道とどれもほどよくがんばるようになった。「勉強」ができる子にまんまとなってしまった。ある意味、丸くしてもらったことも感謝はしている。当時の日本教育はまだまだ「平等」や「標準化」が美徳だったからだ。

 高校生になって、県内でも一番の進学校に進んだ。そこまで進めたのだから、「標準化」の成功例だった自負がある。だが、そこで初めてモヤモヤに襲われた。具体的に何に悩んだのかというと、中学の時は地域でも数少ない神童のような扱いだったが、周りには自分よりも「凄い」人ばかりだった。みんな全然丸くなかったことに驚きを隠せなかった。

これからの武器である「特異性」

 数学と物理に特化していてオリンピックを目指している人、パソコンが好きすぎて分解組み立てばかりやっている人、世界的に活躍するスポーツ選手、そんな同級生に会ったときに、僕は「勉強」ができるよりも特定の何かができる人になりたかったのかもしれないと思った。親に、学校にはこんな人がいて、とてもすごいんだと話している時、虚しさが襲ってきていた。丸い人よりも凸凹の人がよかったと嫉妬ではなく悔しくなった。なぜなら、それは自分が小学生や中学生の時に自分自身の手で完全に捨ててきたことだったからだ。

 小学生に「標準化」と「多様性」を説明したところで理解してくれる子が一体何人いるのだろう。文字の意味を理解してくれたり、ある程度説明できるようにはなるだろうが、本当の意味でこの二つの言葉を飲み込める子はいないのではないか。ましてや、今の親や先生でも無理なのではないか。なぜなら、彼らもまた「標準化」の教育を受け育ってきた人たちだからだ。それが正解だと思っているのではなかろうか。

「標準化」のメリット

 断っておきたいのは、彼らが間違いだと否定や揶揄をしたいわけではない。「標準化」はとても大きなメリットがある。例えば日本人の識字率は世界的に見てとても高い。ここまで公衆衛生がしっかりできている国もそうそうないだろう。「自粛」という法的な効力のないルールを言われたらしっかりと守れる。だが、本当にそれでいいのだろうか。デメリットにも目を向けていくべき時代になっていることにそろそろ気づくべきではないか。

近代国家の教育における目的

 そもそも、戦後に形作られた今の近代国家的教育の目的とはなんだっただろうか。全ての国民に一定の知識を与えて、考える力を養い、再び戦争など起こさないようにしたかったアメリカ側の狙いもあったのではないか。それから、右向け右と言った時に向くように、全ての国民を操れるようにしたかったのではないだろうか。だから、周りから外れるものは、法律でなくとも「道徳」という幻で罰せられるような空気までも作られてきたのではないか。マスクをしていないだけであんなに痛い視線を感じるのはなぜだろうか。罪悪感を感じるのはなぜだろうか。

現代の流行はいかなるものか

 最近流行っているものを想像すると、そんな昭和までの人々が作った「標準化」から離れようとしているものばかりではなかろうか。Youtubeなんかはとてもいい例である。Youtuberはテレビではできないことを、大胆に行い「標準化」からは逸脱的な行為をどんどん行う。結果的に「今までに見たことないもの」だから、まだ右ならへ右の教育を受けていない子供たち若者世代に受けいられ、しっかり「標準化」された大人は何を馬鹿なことをしているのだとか、子供に見せたくないと言っているのではないか。小学生のなりたい職業ランキングでYoutuberが首位となっていることからも分かるだろう。

みんな違って、みんないい

 このように人と違っていい、「多様性」もまた「標準化」と同じくらい大切なんだと小学教育から教えるべきだ。直接そのようなことを言っても理解してもらえないから、かなりの時間が必要になったり、間接的にそういうことを伝えられる授業が大切だと思う。そのために必要最低限の読み書き算盤を小中学校で教え、それ以外はいろいろな体験をさせてあげたり、自分のしたいことを自由にできる時間を作った方が良いのではないだろうか。

 

紙や点数では評価できない人間を目指して生きていくぞ。

 

予定よりも長くなってしまった。。。続きはまた今度。では、また。