【猫の思想】穏やかなお昼
喉が乾いて目が覚めた。とりあえず伸びをしておこう。太陽さんはこれ以上は昇らなさそうだから、3時間ほど寝たのかな。
「今日もとっても平和だにゃ。」
お水はいつもきれいにでてくるけど、近くに川でもあるのかな。どうしてこのお水は流れ続けるのだろう。
「まぁ、考えてもわからないか。」
最近は肉球にお水をつけて、「はひょ〜。」っと冷たさを感じてから、肉球をなめてお水を飲むスタイルが僕の中で流行っている。
春の暖かい空気に包まれながら、毛並みをそろえる。自分で自分の体を舐めといて、言うのは恥ずかしいがこれが非常に気持ちいいのだ。あの人間がやってくれるブラシは、もっと気持ちがいい。だが、あまりにも人間がしてやったりの顔をしているから途中で我に返り、嫌がることも多い。本心はとっても嬉しいのだが。
「そういえば、人間は毛が少ないなぁ。」
ちょうど冬の暖かい毛から暑い夏に耐えられるように涼しい毛に生え変わってきている。そして、あの全自動でお散歩してくれる物体が頻繁に動いている気がする。
「あれが動き回った後の床はきれいだなぁ。」
最近また新しい物体が家に置かれるようになった。それもまた機械と呼ばれるものだが、機械は本当に嫌いだ。絶対に一回は驚かしてくる。なんとたちが悪い。
今回は、僕が通るたびに大きな声で鳴きやがる。鳴き声も今までに聞いたことがないから気持ち悪い。
「こいつは何をするためのものだ?」
よく観察してみると、白色で、大きさは僕の3倍くらいで、どうやら空気を吸うのと吐くことを同時にしているみたいだ。何をするためのものだろうか、皆目見当もつかない。
「本当に人間の使うものは理解に難しい。」
この機会が来たことで何かが変わっただろうか。いや変わっていない。なんのために置いたんだろう。
ちょうど、壁にかかっている小さな家から小鳥が顔を出して鳴いた。どうやら短い針が一周したみたいだ。あの小鳥さんに何回挨拶しても返事をくれない。
「あの鳥は生きていないのだろうか。」
僕は小鳥が大好きだ。狩猟本能がそそられて、鳥を見ていると自然と鳥以外が見えなくなる。低い姿勢を維持し、鳥の方へ一歩ずつゆっくりゆっくり近づいていく。
「今回は逃げるなよ。絶対に捕まえるぞ。」
基本失敗に終わる。そもそも、鳥と僕を隔てる透明な板の邪魔が入る。はじめは透明だから気づかずに頭をぶつけてしまったこともあったが、最近はもう慣れた。
あぁ、また眠くなってきてしまった。僕はいつも寝てばっかりいる気がする。でも寝ることって本当に幸せだからやめられない。
「今日はお腹を上に向けて、大文字で寝てやる!」
数を数えることもなく、視界が暗く、気が遠のいていった。
【独り言】新・小学校の機能、先生の役割
学校は必要だが、今の学校の先生はそうとも限らない
今の「学校の先生」は正直いらない。現在の教科書的な事はテクノロジーで代替可能だ。これはテクノロジーの進化と共によく言われている。
それでは学校はいらないのだろうか。新型コロナウイルスの影響によって休校が続き、学生はオンラインで授業を受けているとは思うが、いささか準備がめんどくさかったり、家にいるために集中できなかったりしているのではないだろうか。
小学生は学校に行かず、外にも出ないために体力が有り余って、夜も寝れないようになっているとも聞く。
だから、学校というハードウェアは必要だ。学生が集まり、勉強についての話以外にもたわいも無い話で盛り上がったりすることは、成長していく上で大切になってくると信じているからでもある。
これからの学校の先生に必要なこと
話を戻すが、学校の先生の役割はどういうものになるのだろうか。以前に述べたように、これからは「みんなと一緒」というよりも「みんなと違う」の方が大切になる。だから、学校の先生の役割は、子供にたくさんの方法でたくさんのことを体験させることでないかと思う。
そのためにはただ普通に大学生になって公務員資格試験のための勉強をしてきた公務員ライクな先生ではなく、どこそこの研究室で活躍していたとか、こういうスポーツで世界を飛んでいたとか、何か熱中できるものがあった人、専門を持っている人の方がいいだろう。
つまり先生のバックグラウンド、スペシャリティがとても大切になる。
学校の「先生」と「事務員」
そんな人材、たくさんいないじゃないか、どうやって集めるのかという質問が飛んできそうだが、何も今いる先生をみんなそういう人にしようとは言っていない。
今いる先生の中でスペシャリティを持っている人と、持っていない人で職務を分けるべきだ。スペシャリティを持っていない人は学校の事務員として働けばいい。先生と呼ばれるに値しない人はかなり多く見られるから、これからの称号は事務員で事足りる。
ましてや事務員であれば必要なくなる。テクノロジーに代替可能だからだ。こんなことを書くと、バッシングが来るが、バッシングする人こそがおそらく次なる事務員であることに気づけていない。
スペシャリティを持った先生は、その先生にしかできないことを生徒に伝え、体験させてあげられると、「先生」になれるのではないだろうか。
プロフェッショナルの世界に触れるべき
さらには、世界的に有名な、第一線で活躍されている方の講義も大切だろう。
一公立小学校にそんな人は呼べないと思うのなら、MOOCなどをまずは知っていただきたい。それを見たら現在すでに、そういうことが可能な証明にもなる。そして、もし興味を持つようになったら、どんどん文献を漁って、読んで考え、動いてみることができるように誘導してあげたい。
このようにして、その子が本当に興味のあるものを見つける助けが少しでもできれば、小学校などの初等教育期間の役割が果たせたと言えるのではないだろうか。
リテラシーメインは良くない!
もちろん読み書き算盤の能力(いわゆるリテラシー)は大切だと思うが、そちらはテクノロジーを使って、早く進められる人は勧め、遅い人はゆっくり進めれば良い。
ここで、是非とも小学校で何を勉強したか思い出してほしい。6年という長い時間を過ごしてきたのに、思い出せるのはせいぜい、漢字、計算程度ではないだろうか。もう少し時間をかけて思い出そうとすれば、結晶を作ったな、アサガオを植えたな、地図帳使ってたかなというくらいだろう。
つまり、最も生きていくに大切なものは頭に残ったり、忘れてたとしても必要になった時にもう一回勉強したりするし、地図帳を勉強したからと言って、Google マップを使いこなせるわけではない。
だから、リテラシーは最低限必要な量だけでいいのではないか。進度の遅い人を責める必要もない。
オリジナルになれ!
結局これが結論になるが、小学生には好きなことをさせ、"オリジナル"になっていいと教えるべきなのではないだろうか。
【猫の思想】朝起きて
朝は慌ただしい。太陽が顔を出している最中、僕は伸びをし、大きなあくびをした。その延長で、ため息を一つついた。こんなに優雅な時間は一日を通しても少ないのに、それを毎回ぶち壊してくれる邪魔が入るからだ。そしてまたため息をつく。
「ほーら、また始まった、大きな足音で降りてくる。」
と心でつぶやきながら、段ボールで爪を研ぐ。別にストレスを感じているわけではない。なんとなく本能が爪を研げというのだ。
以前は一緒にご飯を食べていたが、最近はある時間になれば勝手に僕のご飯が出てくるし、人間の方は朝は食べなくなっていた。お水も自動で流れているから好きなタイミングで美味しいお水を飲めている。不自由は一切ない。
「今日も頭の毛がぐちゃぐちゃにゃ。」
いったい何に追われているのか、全く理解ができない。こんなに清々しい朝の時間を楽しめないのはかわいそうだ。と考えているのも束の間、せいぜい10分で家から出ていく。と思いきや、急に帰ってきては、また出ていく。
「あ、いつも持っている黒い物体を忘れたんだな。」
人間を観察していると本当に面白い。喜怒哀楽が目に見えて分かる。光る大きな板を見ては、時に笑い、時に泣き、先ほどの黒い物体を耳に当てては怒って大きな声をあげたり、目の前に誰もいないのに謝って頭を下げたりしている。
「いったいあの黒い物体で何をしているんだろう。」
そういえば、この前はあの黒い物体が大きな声を出して叫び出したからびっくりして、足が伸びきって急に飛んでしまったではないか。あのせいでしばらく腰が痛かったなあ。それから、たまにあの黒い物体は魔法を使ってその板に僕の見ている風景と同じ風景を止めて写してくれる。一緒に住む人間がよく僕に黒い物体を近づけては、ニヤニヤしていたり、なんや勝手にポーズが違うだので試行錯誤している。
「僕はお前のおもちゃやないで。」
全くやれやれだ。人間の使っているものに関わるとろくなことがない。
以前にも大変な目にあったことがあった。あの丸くて大きな声を出して、床をはって進んで最後には同じところに戻っていくあの物体だ。はじめて家に置かれた日に急に動き出して、逃げても追ってくるから正直やられると思った。
「僕の方が先にこの家にいたんだからな。」
恥ずかしながら、あの物体に胸を張って叫んだことがある。しかし、和解が成立してからはあいつの上に座ると自動で散歩できるからあれはあれで楽しい。それから、急にピンポーンってなるあの機械はなんなんだ。不定期であいつらは鳴いているけどいったいなんのために人間は使っているのだ。
あくびが止まらない。人間も家の外で寝ているのだろうか。まだ太陽さんが登り切っていないからもうしばらく寝るとするかな。
【独り言】小学校教育で必要なことは何なのか?
自然に囲まれた普通の小学生
今となっては遠い過去になってきた小学校時代は、今の自分を作り上げるに大いに貢献した時代。こんな僕のことを覚えていてくれている先生はもうあまりいないのかなあ。特にスポーツや勉強で目立つわけでも、天才的な作品を図工の時間に作っていたわけでもないから、印象に残るような生徒ではなかったと思う。なんて書きつつ、やっぱり一人くらいはいて欲しいと切実に思うあたり、しっかり承認欲求のある人間なんだなあ。
小学生といえば、なりふり構わず、自分のしたいことに熱心に打ち込める時代だった。好奇心は昔から周りよりも強く、どんなこともしてみたいな、どうなっているんだろうな、と考えていた気がする。草むらへ入っていっては、バッタやセミなどを捕まえたり、たまに遭遇する蛇の動きに感動したり、空を飛ぶ鳥たちのなんて気持ちよさそうなこと、川で泳ぐ魚の優雅なこと、基本的にはこうした自然に好奇心ともども育てられた。
親も比較的自然が好きだったのかな。今となっては行く機会も減ってしまったキャンプ、海水浴、川遊び、釣り、竹の子狩り、芝生でゴロゴロ、スキー、僕にとってはとってもとーってもかけがえのない大切な時間だった。今でも時間があったらいきたいなあと思ってしまう。
勉強は嫌いではなかった
勉強の方はというと、そこまで親にやりなさいと言われた記憶がない。もしかしたら、たくさん言われていたのかもしれないけど、自分にとっては少なかったと思う。だから勉強は嫌いではなかった。
決して得意でもなかったけれど。
それでも、ページをめくるごとに次々と新しいことを教えてくれる紙には感動した。写真や言葉で、新しい世界を見せてくれる教科書が好きだった。ワクワクを与えてくれる本という印象だった。
テストは嫌いだった
それにも関わらず、点数は毎回100点ということにはならなかった。ここが近代教育の嫌なところだ。自分の好きなことだけやっていては、「君は周りから遅れている。」と言わんばかりの点数が紙に書かれて帰ってくる。この紙のことは正直嫌いだった。勝手に評価してくる。僕の好きなところばかり聞いてくれたらいいのにと何回も考えた。
テストが嫌いだったから、好きになろうとした。どうしたら好きになれるのだろうと考えた結果、いい点数をとると周りから認めてもらえるところに着目した。いや、してしまった。
褒められすぎた
親にはめちゃくちゃ感謝している。一生かけても返せない恩がある。本当に大好きだ。だけど、一つだけ文句を言いたいこともある。それは褒めすぎたことだ。気づくと、褒められないといけない人間になっていた。
僕は周りの目をすごく意識した。どうしようもないくらいに意識した。最近はようやく意識しないでいいようになってきた。それにはトレーニングが必要だった。小学生の時も常にそうだったから、周りからいい子だねと言ってもらうためなら頑張れた。親が喜ぶ姿を見ていると自分の存在価値を認めることができた。生きがいだった。気持ちよかった。だから、テストも頑張れた。いいことだらけじゃないかと思われるのかもしれないけど、高校生になったときにかなり苦しんだ。
「平等」そして「標準化」
丸くなった。僕は周りの目を意識するようになって、周りの大人、特に親や先生が何を求めているのかを探りながら、生きるようになった。結果的に大人の望む子供になっていったんじゃないかなと思う。国語、算数、理科、社会、図工、体育、音楽、道徳、書道とどれもほどよくがんばるようになった。「勉強」ができる子にまんまとなってしまった。ある意味、丸くしてもらったことも感謝はしている。当時の日本教育はまだまだ「平等」や「標準化」が美徳だったからだ。
高校生になって、県内でも一番の進学校に進んだ。そこまで進めたのだから、「標準化」の成功例だった自負がある。だが、そこで初めてモヤモヤに襲われた。具体的に何に悩んだのかというと、中学の時は地域でも数少ない神童のような扱いだったが、周りには自分よりも「凄い」人ばかりだった。みんな全然丸くなかったことに驚きを隠せなかった。
これからの武器である「特異性」
数学と物理に特化していてオリンピックを目指している人、パソコンが好きすぎて分解組み立てばかりやっている人、世界的に活躍するスポーツ選手、そんな同級生に会ったときに、僕は「勉強」ができるよりも特定の何かができる人になりたかったのかもしれないと思った。親に、学校にはこんな人がいて、とてもすごいんだと話している時、虚しさが襲ってきていた。丸い人よりも凸凹の人がよかったと嫉妬ではなく悔しくなった。なぜなら、それは自分が小学生や中学生の時に自分自身の手で完全に捨ててきたことだったからだ。
小学生に「標準化」と「多様性」を説明したところで理解してくれる子が一体何人いるのだろう。文字の意味を理解してくれたり、ある程度説明できるようにはなるだろうが、本当の意味でこの二つの言葉を飲み込める子はいないのではないか。ましてや、今の親や先生でも無理なのではないか。なぜなら、彼らもまた「標準化」の教育を受け育ってきた人たちだからだ。それが正解だと思っているのではなかろうか。
「標準化」のメリット
断っておきたいのは、彼らが間違いだと否定や揶揄をしたいわけではない。「標準化」はとても大きなメリットがある。例えば日本人の識字率は世界的に見てとても高い。ここまで公衆衛生がしっかりできている国もそうそうないだろう。「自粛」という法的な効力のないルールを言われたらしっかりと守れる。だが、本当にそれでいいのだろうか。デメリットにも目を向けていくべき時代になっていることにそろそろ気づくべきではないか。
近代国家の教育における目的
そもそも、戦後に形作られた今の近代国家的教育の目的とはなんだっただろうか。全ての国民に一定の知識を与えて、考える力を養い、再び戦争など起こさないようにしたかったアメリカ側の狙いもあったのではないか。それから、右向け右と言った時に向くように、全ての国民を操れるようにしたかったのではないだろうか。だから、周りから外れるものは、法律でなくとも「道徳」という幻で罰せられるような空気までも作られてきたのではないか。マスクをしていないだけであんなに痛い視線を感じるのはなぜだろうか。罪悪感を感じるのはなぜだろうか。
現代の流行はいかなるものか
最近流行っているものを想像すると、そんな昭和までの人々が作った「標準化」から離れようとしているものばかりではなかろうか。Youtubeなんかはとてもいい例である。Youtuberはテレビではできないことを、大胆に行い「標準化」からは逸脱的な行為をどんどん行う。結果的に「今までに見たことないもの」だから、まだ右ならへ右の教育を受けていない子供たち若者世代に受けいられ、しっかり「標準化」された大人は何を馬鹿なことをしているのだとか、子供に見せたくないと言っているのではないか。小学生のなりたい職業ランキングでYoutuberが首位となっていることからも分かるだろう。
みんな違って、みんないい
このように人と違っていい、「多様性」もまた「標準化」と同じくらい大切なんだと小学教育から教えるべきだ。直接そのようなことを言っても理解してもらえないから、かなりの時間が必要になったり、間接的にそういうことを伝えられる授業が大切だと思う。そのために必要最低限の読み書き算盤を小中学校で教え、それ以外はいろいろな体験をさせてあげたり、自分のしたいことを自由にできる時間を作った方が良いのではないだろうか。
紙や点数では評価できない人間を目指して生きていくぞ。
予定よりも長くなってしまった。。。続きはまた今度。では、また。
5/19 Today's diary 〜ウクレレとスニーカー〜
お題「#おうち時間」
おうち時間いかがお過ごしでしょうか。
しっかり勉強!という意気込みでしたが、勉強はボチボチになっています。やれているだけ自分偉いと自己肯定しながら、多くの時間を本や動画などに費やしています。どの学生もそんな感じであることを願うばかりです。
読書は、またいつかの機会に読んでいる本のまとめやそこから考えることを投稿しようかなあと思います。
さて、今回は自粛期間にはじめたウクレレについて書いていこうと思います。
ウクレレは価格的にも、大きさ的にもちょうどいい。ギターよりも弦が少ないから、手が小さくてもコードを引きやすい。なんて、とってもはじめやすい楽器なんだ。
実際初めて一時間程度で簡単な曲は一曲弾けるようになってきました。成長がすぐに感じられて続けやすいですね。あれ、自分才能あるかも!って思っちゃいます。
近所迷惑な時間だと練習できないですから、昼夜逆転防止にもなるのかな。
それから、今住んでいるところは、バイオリン、ピアノの音色が聞こえてくるのでなんだかセッションしているみたいで楽しいです。
それから、ようやく自分でデザインしたNIKEのスニーカーが届きました。届いてみて、我ながらカッコ良すぎてワクワクが止まりません(笑)NIKEのアプリからデザインできるのでオンリー1なスニーカーをゲットしてみてはいかがでしょうか!?
天気も良くなってきたので、防水スプレーをして、少しでも長く履けるようにお手入れしていきます。
それでは、また。
5/18 Today's diary 〜猫って偉大〜
お題「#おうち時間」
学校がそろそろ始める予感!
新型コロナウイルスはもうしばらく一緒にお付き合い(いわゆるwith コロナ)が続きそうですね。来年に延期されたオリンピック、開催できるのかな。早く飛行機飛んで欲しいなあ。
自粛で、おうち時間が増え、友人とも会わず、大好きなテニスも封印されて、ストレスがかなり溜まっております。
こんな時、人間は社会的な存在なんだな、と考えさせられます。
誰かと関わっていないと元気が出ない、不安になる、前向きになれない。心理学者のアドラーが言ったように人間の抱える悩みは最終的に人間関係が原因になると思いますが、人とかかわらないのもたくさんの問題が出てくるのかなあと思います。
そして、そんな"誰か"は人でなくとも、例えば、僕の大好きな猫ちゃんでもいいのかな。
猫を見てるだけで癒される。あぁ、なんて偉大なんだ!
猫ってほんとに毎日幸せそう。悩みなんてないようにも見えます。
あまりにも冷静でいることが多く、人間をずっと観察しているようにも見えますね。あぁ、だから人間風刺のために夏目漱石は、猫の視線で小説を描いたのかな。。。
猫大好きで、今の賃貸で描飼いたいくらい。
実家にいる猫ちゃん、レモンちゃんを紹介しておきますね。
約4年前に家族に加わりました、スコティッシュフォールドだけど耳がフォールドし(折れ曲がっ)ていない種類の猫ちゃんです。
こんな写真からも、めちゃくちゃ観察されている気がします。。。
「こいつ、何をしているんだ?その黒いものはなんなんだ?いつも大切に持っているなあ。うわ、カシャって鳴いた!!」なんて考えているのでしょうか。
猫視線での人間風刺はいずれしたいと思います。
それでは、また。